那覇・松山は、国道58号線を挟んで国際通りの反対側に位置し、久茂地~前島の西側に広がる那覇市松山。
多くの飲食店が軒をつらねる“眠らない街”として知られています。
居酒屋やクラブ(倶楽部)、キャバクラなど、お酒を提供する飲食店が数多くあり、沖縄最大の歓楽街と言われています。
そんな松山の歴史について少しお話ししたいと思います。
松山の歴史
1944年(昭和19年) 10月10日の空襲で那覇が焼け野原となりました。
1945年(昭和20年) 3月23日 沖縄戦開始
1945年(昭和20年) 6月23日(9月7日) 沖縄終結
1952年(昭和27年) 那覇市一帯の区画整理が始まる。
松山は区画整理計画ではじめて整理された地区の一つだそうです。
1956年(昭和31年) 若松通り(現在の松山2丁目)ができる
商業地区となり卸問屋が軒を連ねていきました。当時は北部から那覇に出て来て問屋に就職する人が多かったと聞きます。そのように人も増え、徐々に街ができ、飲食店、娯楽、結婚式場などができ、家族が暮らす住宅と市場ができたと聞いています。
1958年(昭和33年) 一銀通りができる
新市街地(国際通り)と旧市街地(若狭付近)を繋ぐ一銀通りができ、さらに若松通りへの流通が盛んになったと聞いています。
1972年(昭和47年)沖縄本土復帰・日本銀行ができる
この頃から企業も増え、人々の行き来もにぎやかになり、拝所が所々にあって、公園や緑地も多く子供たちの遊ぶ場所として、住んでいる人たちの休憩やジョギングをやったりと憩いの場所として楽しんでいたそうです。
1986年(昭和61年)倶楽部舜設立
当時は仕事帰りのビジネスマンも多く集い、語らいの社交場として親しまれておりました。
1990年(平成2年)沖縄卸商業団地協同組合ができ、卸問屋の多くが西洲(イリジマ)に越した。
浦添市西洲の埋め立て地に、卸問屋が次々と移転したため、跡地にマンションやホテルが建ち、空き地は駐車場になりました。通りの統一感は崩れたそうです。
沖縄商業団地ができ、問屋が移転していった平成2年(1990年)あたりから、少しずつキャバクラやスナックといったお酒を提供するお店が増え始め、夜の街として、今の松山に変わっていったと聞いています。
今では、”夜の街”として県外からも有名な松山ですが、戦後の復帰から歴史をたどると、始めは商業地として栄え、今とは全く違う顔があったことを知りました。
若松通り(松山)は歴史というには新しく、史跡とは言えませんが、繁華街としての松山が今に至る経緯や関わった人たちの想いが見える街並みは、戦後の那覇を語る上で重要な存在であると思いました。
このことを少しでも今に伝えていけたらと思います。